年始早々から忙しかったですが、やっととりあえず落ち着いたところです。
今回は今このときの気持ちと記憶を記録すると言う意味で書いておきます。
何してたかと言うと、昨年12月の上旬から祖母の体調が思わしくなく、入院することになり、ほぼ毎日お見舞いでした。
年末年始も行ってたのであまり正月って感じはなかったです。
年明けから体調が急激に悪化し、1月8日に祖母が他界しました。
享年83歳。胃がんでした。

昨年4月頃から祖母の食が細くなり、検査を受けたところ胃の底部に癌が見つかり、5月に胃の3分の2を切除する手術を行いました。
当初の予定の4時間を大幅に超える7時間の手術となりました。
癌の手術の場合、事前に検査で大体の場所・大きさ等は把握できるのですが、最終的には実際に開いてみないと分からないのが実際のところだそうです。
癌の転移等が進んでいた場合、たとえ手術でお腹を開いても何もせずに閉じることもあるそうです。

祖母の場合、当初予定していた胃の切除自体は成功しましたが、開いてみたところ胃から肝臓等へつながる血管に癌が見つかり、切除しようにも複雑に絡み合い、82歳のため体力の問題もあり、取りきれなかったそうです。
この時点で余命1年と診断されました。
高齢であったことと、この先の不安を少しでも軽減するためにも、祖母本人には事実を伏せることになりました。

6月には退院して、おかゆなどやわらかい食事なら食べれるようになり、夏頃には畑仕事もしていました。
私から見れば完治しているようにすら見えました。

秋頃から紅葉の時期と言うこともあり、祖母は両親と頻繁に旅行に行くようになりました。
私はというと、ブログでも書いてたように9月頃から仕事が急に忙しくなり、ROも出来ないほどだったので行けませんでした。
仕事は11月頃には終わる予定だったので、その分休みを多くとって12月には一緒に行けると思っていました。
今にして思うと甘い予測だったのが悔やまれます。

11月の最後の週辺りから急に再び食が細くなり、12月に入るとご飯も一口だけしか食べれないようになりました。
体調も急激に悪くなりドアの開閉だけでも辛いと言ってました。
祖母本人から入院したいと希望があり、病院のベッドが空く12月8日に入院しました。
入院する時点で病院側からも「もう家には戻れない」、「年を越せるかも難しい」と言われました。

入院する少し前、最後の旅行に行く前に、祖母が私に一緒に行かないかと誘ってくれました。
しかし、ちょうど仕事の締め切り等で切迫してた時期であったことと、まさかそれが最後になるとは思っていなかったので、「次は行くよ」ということで断りました。
周りに迷惑をかけまいとする祖母の性格だったので、忙しい私を困らせたくないと思ったのでしょう・・・、それ以上何も言ってきませんでしたが、あのときすでに体の限界を感じていたんだと思います。
苦しくても苦しいことを言うことで周りが心配するのを申し訳なく思う人でしたから・・・。
それを見越しての最後の誘いだったのに・・・なんであのとき行ってあげなかったのかと自己嫌悪してもしきれません。
しばらくは一緒に旅行に行けなかった自分自身へ嫌悪と後悔の念でいっぱいでした。

入院したその日に検査を行ったところ、胆のうが肥大化し炎症するほどになっていることが分かりました。
胃の大半を切除したことにより、胆のうなどの臓器が正常に機能できない状態であったようで、胆汁がうまく出ず、溜まったせいでそれが胃などを圧迫していたため食が細くなっていたようです。
とりあえずその胆汁を抜き取る簡単な手術を行い、数日後には多少なりとも食べれるようにはなりました。

しかし、改善したと言っても、体力的には手術前とほとんど変わらず、体力低下に伴う癌の進行も考慮すれば、年を越せるかは難しいとの状況把握が正しいのが現状。
声もヒソヒソ声のような息を吐きながらしゃべるぐらいしか出来ず、とりあえず落ち着いていはいるものの、数日ごとに発熱することもあり、ゆっくり悪化しているような状態で、良くなることはないとのことでした。

そんな中、孫たちをみんな呼んで銀行から下ろしていたお金を分け与えてました。
私ももらいましたが、預かるだけと言っておきました。
このお金はとてもじゃないけど使えません。
たぶんこの先ずっと・・・。

年末の29日になると病院から呼び出しがありました。
体調が芳しくなく、個室に移るとのこと。
会わせたい人がいれば今のうちにという状況。
少し家から離れた病院だったので、年末年始はいったん家に戻り、年明けから家の近くの病院へ移る予定でしたがそれも出来なくなりました。

年明け3日から心電図や酸素マスクが設置され、声ももう耳を近づけてもほとんどわからないぐらいになりました。
意識自体はしっかりしていて呼びかけにも反応していましたし、誰が来ていたのかも分かっていたようです。
しかし病状説明によるともう癌も末期、体力を考慮すると治療らしいことはしないとの方針。

6日には病院側から、呼出し後にはすぐ駆けつけられるようにしておいてくださいと指示を受けました。

8日の昼に病院に行っていた母から連絡が来ました。
慌てた口調で「すぐ来て」とのこと。
病院に到着時、心電図を見ると心拍数もいつもより数値が低くなっているのが分かりました。
祖母の手を握ってあげました。
弱い力ですが握り返してくれました。
14時頃までには親族も集まりましたが、姉の子がまだ保育園だったので今のうちに連れてくることに。
姉に連れ添っていったん家に車を置いて、姪っ子を連れて再度病院に向かいました。
家から病院まで30分弱。
途中、母からいよいよ危ないと電話が。
病院の病室に着いたのが16時56分。
祖母の臨終は16時54分でした。

母が泣いてました。
普段から泣くようなことはなく、4年前に祖父が亡くなったときに泣いたのが初めて見る泣いてる姿でしたが、今回が2度目に見た姿でした。
姉が泣きながら心電図等を外された祖母の亡骸に、ひ孫が来た事を報告していました。
生まれてからずっと一緒に住んでいた内孫の私は言葉になりませんでした。
祖父のときは早朝に連絡があったときにはすでに亡くなってたので、今回祖母には最後に手を握ってあげられることができただけでも良かったと思います。

祖父のときでどんな気分になるか分かっていたつもりでしたが、正直こればっかりは頭で分かっててもどうにもなりません。
悲しいを通り越して言葉に出来ないほど複雑な気分です。
生まれて物心ついたときから祖父・祖母・父・母・姉と私の6人家族でしたが、姉は結婚して家を出て祖父・祖母が他界した今となっては、新しい家も一気に広くなったような・・・そんな感じがします。

人はいつかは死ぬものですが、親しい人の死は本当に心に隙間が空くような気持ちになります。
ゆっくりその隙間を埋めていき、10年後・20年後には昔の写真を見てあの時のことを懐かしみながら語れるようになりたいです。


最後に祖母へ
 
長い間、本当にお疲れ様でした。